● 井上洋子
● 胸内にたくはへて来し耐へうる力小出しに使ひ術後二ヶ月
● 駅に近き病院なればいつしかに通過電車に時間をはかる
● 哲人のごと目つむりてやり過ごす苦き思ひのあれもこれも
● 裏庭の寺のさくらの満開のころならむ住む人無きわが家よ
● 君とありし年月まざまざとよみがへるこころととのへ鍵を閉ざす
● 磯村幸子
● 残されてひとり生きゐる現在地 きのふトマトの苗買ひました
● 「ええんちゃう」関西弁で言って見る誰とも話さぬ一日の果て
● 両の手を打ちて望みが叶ふなら掌つぶれるまで打たむ逢ひたい
● かまぼこのやうなのっぺりした時間きみ亡き日々の私にはある
● 冥界から見れば私はどのやうな生きものならむ 揚羽が飛べり
● 柿沼寿子
名取市在住。昭和28年誕生。「形成」同人を経て「波濤」に入会。第十二回民子賞受賞。
● 指をもて紅さすしぐさ傍らに見てをりひとつの時代が終はる
● 思ひ出はゴミだと教ふるためならん処理場職員さんの手荒さ
● 砕かるる盆栽鉢の姫いなり耳鳴りのごとく夜半まで続く
● たはやすく断捨離などと言ふなかれ父祖の丹精瞬にして消ゆ
● かろがろと一本の杖と二本の足ゼブラゾーンを横切りゆけり
● 北谷尚也
● 現金に不慣れな手つき恐々と渡されし釣り銭三百五円
● 履き慣れし風合さへもお揃ひのスニーカーの二人乗込みて来ぬ
● 首述べて前を向くほかなき姿羽ばたく鳥の掟のごとし
● 桜若葉翻りつつ黄昏れてふいに蝙蝠のあらはれて来ずや
● 西を指す一機の見えなくなりしのち時経て浮かぶ航跡雲は
● 西郷賢谷
● 利己的に聞こえるかもね「もう良(い)っか」自分を楽にするお呪い
● 川沿いの桜並木は五分咲きで蕾あまたの一枝手折る
● 玄関の一枝桜満開で(花盗人)の心和ます
● 一年中終日(ひねもす)のたりの喜寿なれど病抱えて喜寿も半分
● 小分けした堪忍袋二つ三つポッケに入れて今日も笑顔で
● 三条 純
● 初めての映画館での思ひ出はポップコーンと母と弟
● ディズニーの映画に釘付け鮮やげる画面(シーン)は今も眼裏にあり
● 音もなく雨のふりゐる午前二時西行桜も濡れそぼつらむ
● 末黒(すぐろ)にもちらほら見ゆるわかみどり貫之寄りし鵜殿の春日
● 傘もなく荒れ野をひとりゆく覚悟なさぬまま生く君なきあとに
● 下田秀枝
● 沈丁花の香に合ふたびに母思ふもう生きられぬと詠ひし母を
● 母逝きし二月は去りて母の愛でし菜の花が夫の畑に咲き出づ
● あれほども春を待ちゐし母なるに私はとうとう春にはなれず
● 咲きのこる山茶花の紅が春さきのつめたき雨に濡れて震へぬ
● 郵便番号のなきまま届きたる便り雑事に紛れ置き去りとなる
● 庄司怜子
● 朝刊を畳みてあぐる目の先に黄の毱大きく 福寿草わらふ
● 名刺なども渡すことなく来しことに安堵す小さきことにあれども
● 繕ひながら生きてゆくのが身に添ふと諾ひながら花刺し終へぬ
● 針仕事の決めごとなれば待ち針の頭そろへて数を確かむ
● 眠りへと誘(いざな)ひしは誰か知らねども風やみていつもの朝が来てをり
● 中島やよひ
● 日ぐせの雷鳴りを潜めて雨となりいつものコースポスト駅まで
● せつかくに寄りきし犬にさよならす女主人に少うし気兼ねし
● 入(はい)り来て大き嚔(くしゃみ)をして人は事なかりしと歩き去りたり
● 甘藍(きゃべつ)なら巻きそびるらむ明日明日と疲れに負けて怠りをれば
● わが窓を掠めて鳥の飛びゆけり構ってなんてゐられぬとばかり
● 中村節子
● 海賊と呼ばれし男遠き海の果てまでもゆき石油を買ひき
● 太陽神アポロマークの赤き火は創業者出光佐三の意気地
● 創業より百二十年津々浦々にアポロマークの赤き火は燃ゆ
● 信州の寒さに赤き火の燃えてあたたかかりき石油ストーブ
● 西駒の颪冷たき峡の田に下駄スケートを履きて滑りき
● 宮脇瑞穂
● この朝の福音(ふくいん)として聴きてゐつまだ整はぬ鶯のこゑ
● 雲間よりスポットライトのごとく射す光の中に桜咲く里
● 花桃の咲ける辺りは窓に見て発作の後の散歩は慎む
● 黄砂降る予報に医師より改めて持病の心臓守れと言はる
● 綻びは膝掛にて秘し愛用す多くの時を過ごす籐椅子
● 若菜邦彦
● 磯笛が月夜の海に谺せり一期一会の少女と想ふ
● 臨終にわが面影を浮かべしや黄泉平坂辿るいもうと
● 逆光の中より白き手の出でてわが手を握りいづこへ誘ふ
● 春夏秋冬好みのボタンを人は押し降りてゆくなりこの世のバスを
● 母の手を振り切り友と遊ぶ子よ地球の引力に抗うごとし
● 真鍋正男
● サクラの花の咲くころ一度に三個ほど卵産む嘴細鴉のメスは
● 卵を抱ける雌のため約二十日間餌を届ける雄も健気に
● 孵化したる雛への給餌は雌雄共同で行へり法律などはなくとも
● 三〇日ほどで巣立てる鴉の雛三〇歳過ぎても巣立たぬ娘
● 男女共同参画社会基本法 イクメンは増えたか鴉のやうに
*2021年11月13日に逝去されました。最後の詠草です。「波濤」創刊時より二十八年間、編集責任者として活躍。連載「余滴」「モノクロームの博物誌」は読者の記憶に残る労作。
● 岡本光代
● 高空へのぼりゆきたる揚げひばりのさへづりは光の粒子となりぬ
● なかなかにすんなり読めぬ名を貰ひ広報に載る新生児たち
● 「九十まで生きる」とほほゑみながら言ふ一年がほど病みゐたる友
● 「大人(おせ)らしい」などと子供を褒めもしてわが古里の訛りいや良し
● えんがはにお茶を飲みつつ本日もわれらの結論ピンピンコロリ
*2025年6月26日に逝去されました。最後の詠草です。